サハリン昆布
北海道 南茅部(ミナミカヤベ)の地にて23歳から昆布加工業を手掛ける。
48歳の時に偶然サハリン南部の海岸線一帯に堆く連なり放置されている昆布を見た。その風景は昆布に携わる者として全く見過ごすことが出来ない衝撃的なものだった。
平成11年一大決心の下サハリンに渡る。
間宮海峡を望むサハリン西海岸ネべリスク、宗谷海峡に面する南部のアニワ地区、日本時代の一大昆布漁場本斗、長浜である。良質な昆布が全く顧みられることなく海の雑草扱いとなっていることに憤りを感じた。そして当時ソ連邦から市場経済ロシアへの大転換期の経済混乱の中、疲弊する極東サハリンと行き場を失った多くの労働者達。成田はあっさり決断する。「樺太昆布は戦前の日本時代に高い評価を得ていた。この地で復活させる。そして日本へ輸出する。労働者にはロシア人を雇用し疲弊した漁村を立ち直らせる。」「仕向け地は昆布の激戦地北海道だ!」(わざわざ苦労を拾って歩くような人生と思う。)
そこから成田の苦悩と、身上を賭けた挑戦が始まった。(家族にとっては堪ったものではなかったろう。)
現地入りし早速原料調達をと臨むがいきなり壁にぶち当たる。ロシアの複雑怪奇な許認可手続きだ。ほったらかしの海の雑草扱い昆布に採取のためだけの許認可で数カ月を要した。そうして昆布漁場の造成、採取、加工(干し/貯蔵/干しの繰り返し)、作業指導、労務管理、品質管理、販売戦略、ロシアから日本への輸出手続き、もちろんそれらを達成するための初期資本投下。
筆舌に尽くし難い数々の苦難を克服して製品を完成させた。サハリン入りから既に丸3年の歳月が経過していた。(この年の生産量はわずかに3トン。)
そして迎える最終段階の日本での輸入手続き。しかしながらここで母国「日本」に阻まれることになる。世界最強・最大・天下無敵の「経済産業省+北海道漁連 連合軍」との対峙である。敵の最終兵器は「IQ(輸入割り当て)。」文字には割り当ての意味をもつが内実は完全排他的な輸入規制。ソ連からロシアに変わり、多くの本州商社がその総力をもって挑むも一度も実現することができなかった昆布の「輸入。」
成田は一昆布事業者の意地だけで戦いを挑み、見事正規輸入を実現した。平成17年11月であった。サハリン入りを決断してから実に6年目のことである。
(輸入実現に至る経緯の詳細は書けない。機会があればぜひ本人に聞いてもらいたい。時々アインス宗谷に乗っている。やんちゃ坊主がそのまま歳を取ったような元気いっぱいの60歳道産子である。彼と話すだけでどんなに落ち込んでいても元気になれる。世界不況は気のせいと思える不思議な力がもらえる。)
『サハリン昆布』 是非お試しいただきたい。昆布の本場南茅部の昆布加工業一筋の男が国境を超えて本気で取り組んだ北の海の逸品である。男気と意地と気合いで結実させた「復活!樺太昆布。」ダシでよし。昆布巻きでよし。とろろ昆布は各種おひたしやおにぎりでよし!絶品のうまさである。
お求めは、稚内コルサコフ航路就航「アインス宗谷」船内売店で。(㈱ノマド 伊藤 H21)