なんとか「ストーンハウスロッジ」に辿りついたが、精神的なプレッシャーから部屋の外に出ることは非常に勇気の要ることだった。部屋の外に出ればホテルのオヤジやお兄ちゃん達、掃除のおっさんも会う人間全部が隙あれば騙してやろうという悪意に満ちた表情に見えてしまい、また、通りに出れば擦れ違う人間に誰ひとり信用できる者は居ないように思えた。
なぜかすべての人間が自分の様子を注意深く窺っているようで、自分は下着の内側、胸のあたりに母親が丈夫な生地で、作ってくれた首からつるす貴重品袋の中に、いつでもパスポートと数枚の百ドル札が無事存在している事を確かめて辛うじて安心しているのだった。
「騙されるな!」「値切る事を忘れるな!」当時18歳の大学1年生で、山岳部に入っていた私のまわりに居る先輩達は、自分のネパール体験談を締めくくるときにはいつも、まことしやかに、ネパールという国はとても面白い所だが、悪い奴も多いところで、学生=貧乏旅行が当たり前の我々は常に自己防衛が必要で、のろい奴は騙されて酷い目に遭うから、お前は特にトロいから十分気をつけろ!、というようなアドバイスとも脅しとも取れる事を話して、これから未知の世界に旅立とうとしている後輩を面白半分に扱っているようだった。
1983年当時日本からネパールへ行くには、たいていバンコクを経由して行くのだが、成田=バンコクはかの有名なPIA、パキスタン航空がバックパッカー御用達航空御三家のうち最も人気の高いキャリアだった。因みにあとのふたつはエジプト航空とインド航空だ。北海道のド田舎から出てきた若者にとって、成田空港そのものが驚異の世界だったし、まさか自分がそこから外国へ旅立つとは、なんて大それた事を自分はやってしまっているのだろう、と後悔と不安と興奮とでほとんど3日前から不眠症に陥っていた。バンコクのドムアン空港では、マニュアル通り(?)出発ロビーのベンチで一夜を明かし、翌日なんとかカトマンズのトリブパン空港に辿りついた。
空港から市内まではパスで行け!というほとんど呪文のように自分の頭の中にインプットされていた言葉通り、追り来るタクシーの客引きをかたくなに拒否し、空港敷地内の一角に停車しているぼろぼろの乗合パスに飛び乗った。今考えればパスで市内へ行く人なんて観光客には皆無だし、たとえ吹っかけられていたとしても大した金額ではないのに、なぜあれほど倹約に力を注いでいたのか、とても不思議である。
そしてこれまた呪文のような「カトマンズではストーンハウスロッジに泊まれ!」という言葉を唯一の選択肢として、迫り来るホテルの客引きを全て無視して夢遊病患者のように「ストーンハウス、ストーンハウス・・・」と肱きながら無事ストーンハウスロッジにチェックインしたのだった。数種類ある部屋タイプのうち当然のように一番安い部屋を希望したが、あいにく満室でシングルしか空いていないというので、仕方なくシングルに泊まることになる。そして冒頭のようなカトマンズの生活が始まったのだ。
山登りをかじる者なら大半の人は、一度はあのヒマラヤ山脈を自分の目で見てみたいと願い、出きれば自分の足で登ってみたいと考えるだろう。当時はすでに「トレッキング」という言葉が定着し、世界中からネパールの山村へハイカーが訪れていた。それらの旅行者のために様々な便宜を図るエージェントも存在し、カトマンズ市内には大小様々な会社が軒を連ねていた。
自分の目的もご多分に漏れず「トレッキング」であり、単なる観光客と一線を画すことにささやかながら優越感を持っていた。「一人でも歩けるから」という先輩達の言葉をよそに元来臆病者の私は、こんな国でしかも何が出てくるか分からない山の中を一人で歩くなんてとても出来ないので、ガイドを見つける事にした。
もう名前も忘れてしまったが、路地裏のような寂しいところに小さな事務所を構える、自称トレッキング会社を訪ね、ランタン・コースに行きたいこと、極力節約したいことを言って費用を交渉する。最初2週間で600ドルくらいと言われたが、もとより自分の財布の中にそんな金があるわけなく、ガイド1人だけでいいからということで最終的に100ドルになった。一体どういう料金システムになってるのか疑問だったが、まずはガイドが確保できたので、明朝の待ち合わせを約束し別れた。 ⇒つづく (HAYA)